PARC TOP池上彰の世界の歩き方 第2回

池上彰の世界の歩き方



第2回 少女たちの笑顔の裏に

 2013年、ネパール西部の山岳地帯の麓を車で走っていたときのこと。突然路肩から少女たちが飛び出してきました。みんな楽しそうな笑顔です。おお、これは、これは、少女たちが余所者を歓迎してくれたのか……と、一瞬勘違いしたのですが、少女たちは、通せんぼして、一斉に手を差し出すではなりませんか。これ、なんの仕草か、わかりますか?

 実は、「通行料を払え」という要求だったのです。
 アジアでも有数の貧困国ネパール。インドと中国に挟まれた山岳国で、農業以外には、これといった産業がありません。ヒマラヤ登山の拠点になっていますので、その人たちに関連する観光産業はありますが、それで国全体がやっていけるわけではありません。
 とりわけ地方の農村地帯では、子どもたちは貴重な労働力。学校に通わずに家の手伝いをさせられる子どもたちが大勢います。そこで衝撃的なのは、「債務奴隷」という制度があることです。親が背負った借金返済のため、わずか10歳前後の少女が、地主など資金の貸し手の家に住み込んで働くことです。早朝から夜遅くまで働き詰め。もちろん学校に行くことはできません。
 住み込みの家族がまだ寝ている夜明け前から起き出して、食事の準備。日中は、家族の大量の衣服の選択。井戸水を汲み上げながら、洗濯板を使います。洗濯機のような便利なものはありません。寒さで、少女の手はあかぎれです。
 ネパール政府としては、この児童労働を禁止していますが、根絶されることはありません。政府の役人が、こうした債務奴隷を自ら使っているほどです。
 こんな悲しい児童労働の実態がある。この現実を、「学校に行きたくない」などと言っている日本の子どもたちに知ってもらおうと、実態取材のためにテレビクルーと一緒に農村地帯に入ったとき、この子どもたちの「笑顔攻撃」に遭ったのです。
 現金収入に乏しい農村地帯の人たちにすれば、村を通過する車が現金に見えたのでしょう。でも、大の大人が通行料を要求すれば、これはれっきとした強盗です。トラブルに発展するのは明らかです。
 ところが、あどけない笑顔の少女たちが行く手を遮ると、自動車のドライバーたちは、苦笑いをするしかありません。1回の通行料も、日本円に直すと150円程度。となると、まあ、いいか、ということになり、払ってしまいます。  でも、この金が、少女たちの財布に入るわけではないことは明らかです。少女たちを背後から操っている大人たちがいるはずです。これも、形を変えた児童労働なのですね。
 児童労働の実態を取材に行ったら、別の児童労働の現実にぶつかってしまったのです。

 ネパールは、古くからの王国でしたが、国王の強権政治に国民が反発。2008年、国王は権力を国民に委譲して引退に追い込まれました。混乱が続けば、国の発展は望めません。為政者の能力によって(能力のなさによって)、国は貧しい状態が続いてきたのです。
 国王の強権政治が始まったきっかけは、2001年6月。国王一族9人が、国王の息子の王太子による銃の乱射で殺害されました。事件を起こした皇太子自身も自殺したとされています。
 ところが、王室一族が集まっていたはずなのに、国王の弟ギャネンドラだけが現場にいなかったために難を逃れ、新国王に就任しました。事件は不可解な点が多数ありましたが、王族の葬儀は非公開で短時間のうちに執り行われました。
 実は、ギャネンドラは、王族の中で最も評判が悪く、「この人物だけは国王にしてはいけない」と言われていたほどだったのです。国王の直系の一族はみな殺害され、ギャネンドラだけが生き延びて国王に。あまりに不自然な事件でした。
 ギャネンドラ国王は、国王に就任すると、議会を停止し、強権政治に乗り出します。国民の不満が高まり、ネパール統一共産党毛沢東主義派が武力闘争を展開して、内戦状態になってしまいます。
 2006年になって、ようやく和平が成立し、新しい憲法を制定する議会が招集され、それまでのネパール王国は、2008年にネパール連邦民主共和国に衣替えします。国王は地位を追われ、王宮から追い出されました。

 ネパールの近くにあるブータン王国は、先代の国王が、2005年、国王の権力を国民に委譲すると自ら言い出し、国民を驚かせました。国王は、ネパールの混乱を見て、思うところがあったようです。
 国民は、国王が政治権力を持ち続けることを求めますが、「自分の息子や、そのまた息子が無能だったら、国民は迷惑する。国民が選挙で為政者を選ぶべきだ」と説得したのです。
 2006年、総選挙が実施されて新しい政権が誕生すると、国王はさっさと退位し、名目的な存在となった王の座は、息子に引き継がれました。2011年の東日本大震災の後、日本を訪問した新婚早々のワンチュク国王は、多くの人に感銘を与えました。「息子は無能」ではなかったのですが、政治権力は放棄。権力はなくても国民から敬愛されています。
 2012年、私はブータンも訪れました。ここも貧しい国ですが、少なくとも少女たちによる「笑顔攻撃」には出合いませんでした。似たような環境の国でも、大きな違いが生まれます。ネパールの少女だたちの「笑顔」が、心からの笑顔になる日が来るのを願っています。


【連載 バックナンバー】
第1回 「世界」を伝えるということ
第2回 少女たちの笑顔の裏に
第3回 真の援助とは
第4回 砂漠のハエは目に集まる
第5回 空から海賊を見分ける方法とは
第6回 今後発展する国を見分ける池上流の方法とは
第7回 「海外に行きなさい」とダライ・ラマ
第8回 パリのテロの現場から



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