PARC TOPオルタオルタ2008年9・10月号



ワキ毛──剃るも剃らぬも私の自由!?


文=金 友子


 フェミニストか、と聞かれても、自信を持ってそうとは言えない。一時、専攻は何ですかとの問いには「ジェンダー研究」と答えていたが、実際に「研究」をしているかと言われると、これまたそうではない気がする。そしておそらく、ジェンダーについて研究することと、フェミニストであることとの間には、少なからぬ溝があろう。一方は単に研究分野について述べているだけ、もう片方は「主義者」であるがゆえに、その「主義」にもとづいた生き方が問題となる。

 しかしながら、「主義」を貫き通して生きるのはそんなに簡単なことではない。周りとの衝突・葛藤は避けられない。勉強するとは、ものごとに対する別の見方を養い、別の生き方を考えること、つまり「普通」を問うことだと私は考えているが、そんな風に勉強して「普通」の生活――結婚して、子供を産むような――を送ろうとしない私に対して親や親戚の目は厳しい。女の人にのみ求められる「気配り」を拒否して、お茶やお酒をついだり、ご飯をよそってあげたり、いそいそと皿を片づけたりするのを避けていたら、単に気の利かない人になっていたりもした。

 世間では、男性の女性化、あるいは男らしさ/女らしさの境界が徐々に低まっているユニセックス化の現象が進行している。男性用化粧品やエステの類は、もはや一般的なものになりつつあるようだ。しかし「らしさ」の呪縛は意外に固い。20〜30代をターゲットにした女性雑誌で最近よく見かけるキーワードに「女子力」というのがある。

 女子力向上委員会によれば、女子力とは「キレイになりたいと願い、行動する力」のことだそうだ。インターネットの検索サイト「goo」のランキングの中に、「これができていると“女子力”が高いと思うことランキング」というものがあった(註1)。1位の「一年を通してムダ毛処理を怠らない」を筆頭に、2位「座っている時の足は常に揃った状態」、3位「着る服に合わせてメイクを変える」、4位「浴衣の着付けができる」、5位「飲み会の時さりげなく皿を片付ける」と、以下30位までのランキングが続く。

 ブラとショーツはセットではき、ポケットティッシュばかりかウェットティシュ、裁縫道具、絆創膏を常時携帯し、月に一度は美容院とエステに通い、ごみ捨て時にもメイク、家着にも気を遣う。デスクワークではひざ掛けをしつつ冬でも薄着、食後の歯磨きも怠らず、帰宅前にはメイク直し、飲み会の席では鍋の灰汁をまめにとり料理を皿に取り分け、毎晩アロマオイルの香りに包まれて就寝。ユーザーの「ありえない」という声にも反映されているように(註2)、どこぞの訓練されたお姫様ならまだしも、こんな女性は、それこそ「ありえない」。


 夏になると困ることがある。ワキ毛をどうするか、がそれだ。

 高校生くらいになると、女子の間で交わされる夏の話題といえば「ムダ毛の処理」だった。剃刀はどこのメーカーがいいとか、除毛クリームはイマイチだとか、脱毛テープは痛くてやってられないとか、毛抜きで一本一本抜く(首がつりそう!)とか、そういう話題で盛り上がったりしたものだ。「きれいなお姉さんは、好きですか?」のキャッチコピーとともにナショナル(当時)から脱毛マシーン「ソイエ」が発売されたのもちょうどそのころだった。大学生になると永久脱毛とかレーザー脱毛とか、除毛・脱毛も高級化していく傾向にあった。

 毛がない、さらには毛穴も見えないツルツルの肌。これがおそらく「きれいなお姉さん」の条件であり、今もそうあり続けている。最近流行の制汗剤は、汗を抑えるのみならず、ワキの毛穴を見えなくさせる機能まである。実際、CMに登場する女性のワキは、まるで化粧でもしたかのようにツルツルの陶器肌だ。どうやら世間は女に毛が生えないと思っている、あるいはそう思いたいらしい。

 私は夏になるとどうしてもタンクトップやキャミソールなど袖なしの服を着たくなるのだが、そのたびに悩む。剃るか剃るまいか。だったら袖のある服を着ればいいのではないか、と思われるだろうが、最近はTシャツも体にぴったり、袖も小さめに作られており、どうしてもショロショロとワキ毛が見えてしまうのだ(ダブダブのTシャツは好みではないのであまり着たくない)。

 もちろん、「ワキ毛生えてますよ」なんて指摘する人はいない。見えているのか、見て見ぬふりをしているのか。ツルツルでいなければならないということからは解放された気がしたが、かえって見えていないだろうかと心配するようになり、結局解放されていない。ワキ毛が生えていてもいいじゃないか、と思いつつも、見えたら見えたで何か恥ずかしい。

 というわけで、ワキ毛を大事に育てているのだが、かくいう私も、まったく体毛処理をしないわけではない。口の周りにうっすらと生えるヒゲは処理するし、眉毛の形も整える。たまにはくスカートは大概が足首に届くくらいの長いものだが(それさえ今年はあまりはいていない)、そのときにはひざから下に生えている毛を剃ることもある。昔は腕毛も剃っていたし、指毛は抜いていた。しかも夏になると体毛が濃くなる。薄着になるせいだろうか? 動物の毛が夏になると薄く生え変わるのとは正反対だ。ワキ毛はどうだかわからないが、腕毛、すね毛、そしてなぜだか指毛(指の第二関節の下あたりに生えている毛)とおなか(へそ周辺)の毛は、気温の上昇とともに濃くなっていく。


 3年ほど前、韓国の梨花女子大学校(略して梨大)という韓国の女子大に交換留学で一年間滞在した。名門女子大学として知られるこの大学は女性学科があることでも有名で、私も「女性学」を学んでみたくて留学したのだった。女性学科にもいろいろな人がいて(当たり前だが)、みんなが「女性主義者」というわけではない。ブランドバッグにワンピースの、いわゆるお嬢様から、スウェット上下のラフな感じの人までさまざまだ(ちなみに韓国では普段着としてスウェット上下を着用する人が多いように思う)。服装はどうあれ、「男の目がない」からそうなのか、女性たちが自由に過ごしている雰囲気だった。ある日図書館に行ったときのこと。高い書架の本をとろうと手を上げた学生をふと見ると、ワキ毛が生えていた。ソファーでごろりと寝ている学生にもワキ毛が!! そして考えた。私はなぜワキ毛を剃っているのか、と。

 韓国の女性たちはもともとワキ毛を剃らないことが多い、と言われてきたが、最近はそうでもない。昔は肩を出すような服装をする女性も少なかったためにそうなのだろう。肌の露出にともなって、ワキ毛をはじめとする毛の存在が邪魔者扱いされるようになってきたのだ。

 少し前の話になるが、2006年の韓国の流行語に「屈辱」があげられていた。「芸能人の屈辱シリーズ」や「サッカー選手の屈辱」というように、写真を撮る瞬間によって白目を剥いていたり、スポーツ選手の失敗の瞬間などをとらえた写真が有名人の屈辱的な姿として話題を集め、一昔前に映画『猟奇的な彼女』(韓国公開2001年、日本では2003年)のヒットをきっかけに「猟奇的」という言葉が流行ったように一種の流行語になっていた。女性芸能人の「屈辱的」な姿としてインターネットで流れているもののうちに、ワキ毛がちらりと見えているものがある。女性のワキ毛は「屈辱的」なものとして認識されているのだ。

 私とワキ毛との付き合いは、梨大での出来事をきっかけに始まった。ワキ毛との付き合いというと非常に限定されているようだが、そこから、体の楽チンさについて考えるようになった。振り返ってみれば、どれもこれもが体に無理を強いている気がする。体を過度に締め付けるブラジャー、地に足ついて歩けないハイヒール、どんなに通気性のよさを謳っていてもやっぱりムレる生理用ナプキン(註3)。一時間もかけて塗りたくる化粧。すべてがアホらしく思えてきた。そうして、私はワキ毛を剃らないことを決意した。大げさかもしれないが、腕毛や指毛はとりあえずいいとして、ワキ毛は何かを問うているように思われた。

 それ以降、ワキ毛をあまり剃らないでいる。生えていると愛着にも似た思い入れが湧いてくるもので、剃るのが惜しくなってくる。最近ワキ毛を剃ったのは、確か親戚の結婚式だった。私の持っている一張羅は袖のないツーピース。小心者の私は「ワキ毛、剃ったほうがいいかな」と母に相談。「結婚式なんだから剃ったほうがいい」との言葉に、無念を抱えながら何ヶ月かをともにしたワキ毛たちを剃ってしまった。そのときに感じた後ろめたさは、一言でいえば「負けた」という感覚に近かった。しかし何に?

 「一般に、女性に毛があるという事実が肯定的に見られたことはかつて一度もない。それは邪魔で醜くて汚いとみなされる。とはいえ男のほうは、自分の体毛を不快なものと考えたことは一度もなく、それどころか毛を誇り自慢し、毛深ければそれだけ魅力的で男らしいと考えてきた」(註4)。もちろん、最近の男性の体毛も薄毛志向を考えれば、引用の後半部分は当たらない。

 エステ会社の大手TBCは、1999年から男性向けのエステサロンをオープンさせたという(註5)。さまざまな脱毛コースのメニューの中に、あった! ワキ毛の脱毛が。しかしどうやら、ツルツルに毛をなくしてしまうのは抵抗があるけど、もう少し毛を少なくしたい、というものらしい。男性のエステや脱毛による「性差の縮」(註6)は見られるものの、女性の体毛の育成による性差の「縮」は見られない。私が気に入らないのは、この不均衡である。

 不均衡……。そんな私も不均衡だ。髪の毛はロングヘア、マスカラばっちりというのはやめたが、外出するときは化粧をする。爪を伸ばしてマニキュアを塗るのも好き。かかとの高い靴も履く(たまに)。「何か矛盾してないか?」と思われる人も多いだろう。私もそう思う。でも、ショートカットにしてスッピンにして爪を短く切ってペタンコの靴を履いたらそれでいいのか? 何かが違う気がする。

 ワキ毛を抵抗の印にしたいわけではないし、ワキ毛を剃らないこととフェミニストであることが直結しているわけでもない。剃っている人だって、何もすべてが男の目線を気にしてのことではない。ワキ毛をさらしたからといって社会が変わるわけではない。しかし、男性の毛は流行ることもあるが(たとえば無精ひげなど)、女性の体毛が流行ることはないのだ。

追記:先日、とあるバーで「ワキ毛について文章を書いている」と言ったら、「私、生えてるよ〜」と見せてくれた女性がいた。周囲の「男子」たちは「スカート・デモ」をするらしく、「女子」たちは「ノースリーブ着て電車の吊革につかまるデモ」談義でひとしきり盛り上がった。一列にずらっと並んだ女性たちが吊革につかまると、さりげなくワキ毛が……。「さらす」のもこういうやり方なら面白いかもしれない。といっても、夏ももう終わり、か……。


(註1)2008年7月31日閲覧。調査主体はgooで、gooのリサーチ登録モニターを対象に08年6月23日〜25日の間に集計された。有効回答数1014(男性51%、女性49%)。
(註2)gooランキングには閲覧者がランキング自体の評価をつけることができる。本調査では、「面白い」が700人弱(20%)、「ありえない」が2000人弱(60%)であり、異例の不評を買っている。
(註3)ちなみに、韓国の紙製品は日本より若干価格が高いうえに、とりわけ生理用ナプキンは使い心地がよくなかった。日本の生理用品を懐かしく思ったものだった。その機能性の高さはおそらく世界でも(きちんと比べたことはないが)群を抜いているように思われ、たまにお土産で買ってきてほしいと頼まれる。もちろん、布ナプキンの心地よさに勝るものはない、と思うが。
(註4)マルタン・モネスティエ『図説 毛全書』大塚宏子訳、原書房、2005年
(註5)前田和男「体毛と美意識の関係の史的考察――男のヒゲがなくなると女は薄化粧になる」『日本の化粧文化――化粧と美意識』資生堂企業文化部、2007年
(註6)同註5

きむ・うぢゃ/1977年生まれ。大学非常勤講師、立命館大学研究員。専門は在日朝鮮人問題、韓国現代文化論。共著に『異郷の身体』(人文書院)。編訳書に『歩きながら問う―研究空間〈スユ+ノモ〉の実践』(インパクト出版会)。

(PARC)

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