PARC TOPオルタオルタ2008年1月号



「ババ抜きゲーム」は続くのか?――国内第三世界化と外国人労働者

文=五十嵐泰正


 仕事、特に若い世代のそれをめぐって、仕事をする側に関しての議論は様々に蓄積されてきた。たとえば、キャリアの蓄積に向かわないデッドエンド(袋小路)のような仕事に従事する若者に、どう専門性を身につけさせ、ステップアップのハシゴ(キャリアラダー)を架けてゆくかという議論が焦点化してきている。本連載第3回の阿部真大のすぐれたエッセイは、現実をしっかりと見据えた上でこの論点を的確に整理した。

 しかし一方で、仕事を生み出す側の論理に目を向けると、デッドエンド・ジョブは決してなくならない。先進国では生産性の低い製造業が国外に流出し、国内の産業の中心は“付加価値”の高いサービス業となる――。「脱産業化社会」に関するこうした教科書的な理解は、この社会の現実からあまりにもかけ離れている。

 清掃業や廃棄物処理、外食産業に弁当屋、そして介護と家事。これらはすべて、先進国の都市で生産活動の傍らに存在してこそはじめて意味を成す、サービス分野の低賃金業種だ。その多くは、生産活動を行う健全な身体と環境を維持するための「再生産労働」であり、近代家族のジェンダー秩序によって女性に押し付けられてきたシャドウ・ワークが、家庭外に外注されるようになって膨張した労働市場として位置づけられよう。

 同じような意味で、典型的なデッドエンド・ジョブである性産業――若く、経験がないほど市場価値が高いことが一般的である――も、賃金水準などは異なるものの、このリストに加えるべきいくつかの特徴を備えている。

 また、2007年秋に放映されたNHKスペシャル「人事も経理も中国へ」で描かれたように、ホワイトカラー職が次々にマニュアル化されて海外での外注へと切り分けられる一方で、一部の製造業は日本回帰が進んでいる。

 たとえば携帯電話部品の製造工場。携帯電話は、あまりに機種のバリエーションが多く、モデルチェンジのサイクルが速いので、国内で市場に即応した人海戦術で生産するしかない。低賃金の上、頻繁に配置転換される請負労働者たちが、長期的な視野を持って家族形成をしたり、現在の境遇を抜け出したりすることは極めて困難だ。

 阿部も認めるように、キャリアラダーをめぐる議論とは、「未来のある安定した仕事」へとハシゴを架ける可能性を一つひとつ発見し、その道筋を構築していく個別の陣地戦でしかない。ハシゴが絶対に架けられそうもない仕事も世の中には転がっているし、「資本の論理」とやらは、「まともな仕事」を次々にフォーマット化・マニュアル化し、デッドエンド・ジョブへと組み入れてコストダウンを図っていく。

 そうした環境で行われる陣地戦は、うまくいってもイタチごっこであり、悪くすればイス取りゲームである。絶対に必要な戦いではあるが、本質的に効果は限定的である。

 そうするとわれわれの前に、ある避けがたい、冷厳な問いかけが浮上する。

 「デッドエンド・ジョブを誰に押し付けるべきなのか?」

 もしくは、

 「国内第三世界に誰を囲い込むべきなのか?」

 筆者が研究領域の一つとしてきた「外国人労働者」は、その存在自体が、この過酷な「ババ抜きゲーム」と常にともにあった。先に挙げたような職種は、多くの先進国で外国人が就業している代表的なデッドエンド・ジョブだが、格段に違う通貨価値に惹かれた途上国からの単身者が数年間の出稼ぎとして行う分には、とりあえず「何の問題も生じない」と考えられてきた。しかも人種という分断線に沿ったババ抜きは、暗黙に了解されている人種差別(レイシズム)によって社会的に正当化されがちだ。

 1960年代の成長期、ドイツやフランスをはじめとした西欧諸国は、労働許可証を発給した外国人を、ゲスト労働者としてローテーションで受け入れ、建設業や製造業などの過酷なデッドエンド・ジョブに従事させていた。ヨーロッパでのこのシステムは、オイルショックの低成長期にいったん終了するが、似たような発想の外国人受け入れ策は現在でも各国で盛んに行われている。

 日本でも受け入れが少しずつ始まった介護や、「少子化解決の切り札」として近い将来議論になることが間違いない家事・育児の分野では、シンガポールや台湾、香港などのアジアの新興工業地域ですでに、有期雇用契約によりフィリピンやタイなどからの女性が大量に受け入れられている。

 日本の外国人研修制度は、人材育成という美名の下での労働法さえ適用されない超低賃金労働という実態が露見しているが、これもハシゴの架からない産業構造の最底辺での実質的なローテーション・システムとして機能している。しかし、詐欺的な搾取と化している日本の研修制度は論外としても、外国人にババを引かせる政策は本質的な困難をはらむ。西欧では、契約終了後もそのまま住み着く外国人が増大し、家族を呼び寄せ、定住移民となっていった。

 レイシズムという難題も抱える移民の二世たちは、もはや安易にババを押し付けることの可能な外部の存在ではなく、世代を越えて袋小路に閉じ込められた“社会内の”若者たちである。フランスの40年前のババ抜き政策が、郊外団地に滞留する彼らから手痛いしっぺ返しを食らっているのは周知の通りだ。

 台湾などではその轍を踏まないように、外国人家事・介護労働者はきわめて厳格な管理の下に置かれている。たとえば、彼女たちが妊娠したり伝染病に罹患したりすることは、即解雇・出国の対象となり得るし、渡航前に定められた雇用主を変更すると即出国が求められるため、明確な証拠の残りにくい、住み込み家事労働者への虐待が横行していると言われる。

 移住先での定着というあまりに当然の事態を防ぎ、「問題が生じない」ババの押し付けを続けるためには、これほどまでの非人道的とも言える管理が必須だということなのだろうが、これだけの管理の下で、低賃金の長時間労働に従事するくらいなら、日本人男性との結婚・定住という一応の「アガリ」への道にも開かれていたアジアン・パブで働く方がまだマシだとさえ思ったりもする。

 外国人でも問題があるなら、どうしたらいいのか。ある社会集団にババを引かせるという発想を前提とする限り、筆者にはあり得べき選択肢は一つしか思い浮かばない。以後のキャリアアップも家族形成も考える必要のない、「高齢者」である。官僚出身の労働政策の専門家、濱口桂一郎も最近指摘している方向性だ。

 しかし、社会保障費の中でも高齢者関連の予算が突出しているようなこの国で、現行の「シルバー人材サービス」程度以上に抜本的な形で達成されることは、政治的プロセスを考えても現実的には当面想像できない。

 僅かな紙幅を残して、この暗いエッセイもまた、ここで袋小路に陥る。しかしそれでもあえて、デッドエンド・ジョブにハシゴを架ける模索と同時になされるべきことは何かといえば、それを誰に押し付けるかの議論ではなく、「夢」の持てない袋小路でもとりあえずは生き、安定した家族形成ができるような労働条件を求める地道な交渉でしかないのではないか。そしてその交渉の鍵は、広い意味でわれわれが握っていることも忘れてはならない。

 われわれは労働者であると同時に消費者である。過酷な労働条件のデッドエンド・ジョブを生み出すのは「資本の論理」と安易に結論づけがちではあるが、その資本が何よりも目を向けているのは、あらゆるサービスの24時間営業や、頻繁なケータイの機種変更を求めるわがままな消費者のニーズなのだから。


いがらし・やすまさ/1974年生まれ。筑波大学講師。専攻は都市社会学、国際移動論。

(PARC)

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