PARC TOPオルタオルタ2008年1月号



「犯罪者組合」の可能性

文=大屋雄裕


 裁判に関する署名活動と聞けば、政治的なテーマに関するものか、刑事裁判で被告人に対する寛大な処罰を求めるための嘆願書という印象がないだろうか。だが最近ではむしろ、厳罰化を求める世論が運動の形を取って、続々と司法の場に流れ込み始めている。

 たとえば2007年8月に愛知県で起きた女性の拉致強盗殺人事件に関しては、犯人3人に対して死刑判決を求める10万人以上の署名が名古屋地裁に提出されたというし、ひき逃げについては処罰の強化を求める署名を遺族団体が中心となって法務大臣に提出、実際に「自動車運転過失致死傷罪」(註1)の創設に結びついた。

 ここでは個々の事件の量刑をめぐる問題には踏み込まないことにするが、ここ数年の傾向として、処罰の強化・厳罰化が世論の支持を追い風に進みつつあることは明らかだと、そう言っていいだろう。その背景にはいったい、何があるのだろうか。

 もちろん「何を罰するべきか」に関する国民の意識の変化(飲酒運転や路上喫煙に対する視線はその一例だろう)や、「人身売買罪」新設(註2)のように国際的な要請があることもある。あるいは、寿命が延びたからという理由も挙げられる。

 たしかにある刑期の持つインパクトは、想定される「人生の長さ」に影響されるだろうし、犯行を事前に思いとどまらせるための「威嚇」として刑罰を捉える立場(心理強制説)からは、復讐ではなくそのインパクトを維持するために厳罰化が必要だという主張も出てくるだろう。

 だがもっと本質的な原因は犯罪処罰をめぐる「対称性の欠如」にあると、刑法学者の松原芳博は指摘している。

 こういうことだ。一般的に特定の政策については、それによって利益を得るから賛成する勢力と、逆の理由で反対する人々がいるだろう。そして多くの分野では、双方の代表者を政策形成過程に取り込む仕組みが設けられている。

 労働争議を調整する国の中央労働委員会が使用者委員・労働者委員・公益委員の三者により構成されていること、同じく健康保険に関する事項を審議する中央社会保険医療協議会の委員が、保険者被保険者側・医療側・公益代表から選ばれることなどは、その好例だろう。

 ここで公益代表には、対立する両当事者の意見を調停する役割が期待されているわけだ。だが、と松原は言う。たとえば法定刑の引き上げが議論されるとき、それによって不利益を受けるもの――つまり犯罪者の意見は考慮されているのだろうか?

 ここに問題の根源がある。第一に、犯罪に相当すべき刑罰をめぐる議論の場に流入してくるのは被害者の側の意見だけで、加害者はそこから疎外されている(労働組合はあるのに、どういうわけか犯罪者組合は存在しない……と松原はユーモアを込めて語る)。

 第二に、民事事件の原告と被告のような逆転可能性も、そこでは考慮されない。世論を構成する「普通の人々」は、自分もいつか罪を犯すかもしれないとか、裁判にかけられるかもしれないとは想像しないというのだ。だから世論は、犯罪者=すでに罪を犯してしまった人々に対して常に苛酷に振る舞うことができる。

 賛否両側の人々の立場が入れ替わらないこと、より正確に言えば入れ替わる可能性があると想像しないことが、一方的な厳罰化傾向の背後にあるものなのである。

 さて問題は、ではどうするべきかということだろう。

 松原自身は、対称性の欠如という構造的問題が今まで露呈しなかったのは、法曹や刑法学者などの専門家集団が議論をコントロールしていたからだと考え、政策形成に「熟慮」を反映させるというその機能の再評価を提唱している。短期的、感情的に形成されやすい「世論」のうち、正当化可能なものとそうでないものを振り分ける専門家の役割を重視すべきだと、そういうことになろう。

 だがこの松原の見解については、対称性の欠如が発生した一因がまさに専門家の論理それ自体への不信にあったのではないか、とも私は反問したくなる。

 もともと刑事裁判とは、国家が被告人と対決し、犯罪者と認められたものを処罰するための制度であり、そこに被害者のための場所はなかった。

 事件の当事者でありながら、国家=検察官にその地位を問答無用で代理され、公判記録を読む権利も公判に立ち会う権利も量刑に意見を述べる権利もなく、ひどい場合には自分の知らないうちに加害者に対する措置が決められているというのが(2000年に刑事訴訟法関係の改正が行われるまでの)被害者の立場だったのだ。

 その専門家による勝手な代弁を批判し、当事者自身の声を刑事裁判に反映させよというのが、司法改革の一つの大きなモメントだったのだろう。

 そして間もなく、「裁く側」においても国民の直接参加が始まろうとしている。裁判員制度と犯罪被害者保護に共通するもの、それは専門家の論理に対する不信であり、当事者をして語らしめよという民主政の要求である。

 こうして見るとむしろ、強化される直接参加の波のなかで「犯罪者」だけが取り残されていることが問題なのではないだろうか。事件のたびに注目されるのは弁護団の行動・言動であり、裁判における被告人本人の声、裁判後における収監者の意見がわれわれに届かないこと、それこそが非対称性を形作っているものなのではないだろうか。

 だとしたら重要なのは、なぜか犯罪者組合がないから問題が起きるという松原の(正鵠を射た)指摘を、だから犯罪者組合を作るべきなのだと読み替えることなのではないか。

 ポストモダンの代表的思想家であるミシェル・フーコーが1971年に「刑務所情報集団」(GIP)という団体を結成し、活発に活動していたことを思い起こそう。

 「刑務所は、われわれの社会システムの隠された領域のひとつなのであり、われわれの生活の暗部のひとつなのだ。われわれは、刑務所について知る権利があるし、知りたいのだ」(結成時の宣言)、だから「GIPの唯一の合い言葉は、『拘禁者に語らせろ!』なのです」(雑誌インタビューに答えて、いずれも桜井哲夫『フーコー―知と権力』講談社、1996)。

 フーコーがそこで拒否していたのはサルトルのような知識人像、弱者のことを当事者以上に理解している(はずの)運動体=前衛党が弱者を指導するという社会運動であり、その前提としての専門家による代弁の可能性だったのだろう。

 だからこそ彼は、結果的に当事者自身を専門家の指令に従わせることになる組織性を退け、ただ当事者の声を社会につなげるための「匿名の運動体」(桜井)を機能させることにこだわったのではないだろうか。

 我々の幸福を配慮する優しい国家(生―権力)の問題を問い続けた思想家が、当事者の声そのものを社会へと届けようとしていたこと、それによって代弁の論理を拒否し抜こうとしていたことを、我々は忘れるべきではないだろう。「犯罪者組合」を通じて見えてくるのは、当事者と代弁者との対抗関係なのである。


(註1)2007年、従来の「業務上過失致死傷罪」に代わり、自動車運転中の過失による事故に限って「自動車運転過失致死傷罪」が適用されることになった。これにより、最高刑は従来の懲役5年から懲役7年へと引き上げられた。

(註2)2005年、苛酷な労働や売春の強要を目的とした人身売買の防止への取り組みが遅れているという国際社会からの批判などを受け、人を買い受けた者、売り渡した者を罰する刑法改正が行なわれた。


おおや・たけひろ/1974年生まれ。名古屋大学大学院法学研究科准教授。専攻は法哲学。著書に『自由とは何か─―監視社会と「個人」の消滅』(ちくま新書)、『法解釈の言語哲学――クリプキから根元的規約主義へ』(勁草書房)。

(PARC)

ページの先頭へ戻る