PARC TOP>オルタ>オルタ2008年2月号
〈つらさ〉の分断を超えて
文=本田由紀
過去十数年間にわたり、仕事の世界は変貌を遂げてきた。それ以前から徐々に変化の兆しはあったが、それがいっきに顕在化した。その変貌は、働き方が多様化するとともに、多様化したそれぞれの働き方が、極限的と言えるほどの著しい負の特徴をもつ形で生じているように見える。
働き方の「二極化」がしばしば指摘されるが、私の手元にある若者調査データでは、少なくとも3つの層への分化が見られる。
それは、非正社員が多くを占める「短時間労働者」、法定労働時間を少し上回る程度の密度で働いている「中時間労働者」、そして自営を一部に含む「長時間労働者」である。若年労働者の中で、この三層はほぼ均等な比率で存在している。
データからは、それぞれの層について次のような特徴が見いだされる。
短時間労働者は、言うまでもなく時間的には仕事以外の生活と仕事との両立が可能だが、収入の低さや不安定性が突出している。
長時間労働者は、仕事のやりがいや、自分の能力を発揮できているという実感は得ているが、ときに生活や健康の維持が成り立たなくなるほどの時間を労働に投入しており、仕事が「きつい」という感覚も強い。
この両極の狭間にある中時間労働者は、かなり安定的に働くことができているが、仕事はルーティン的なものが多く、能力発揮や昇進の機会にはあまり恵まれておらず、同じ職場での人間関係が関心の大きな部分を占めている。
すなわち、時間的な自由度を得る代わりに収入や安定性を犠牲にする短時間労働者、没入できる仕事を得る代わりに他の生活を犠牲にする長時間労働者、安定を得る代わりに可能性や自由を犠牲にする中時間労働者というように、いずれの働き方においても、仕事に関わる重要な何かと引き換えに、別の重要な何かを手放さざるを得ないような状態が生じているのだ。
そして手放した「何か」は極めて大きい。短時間労働者にとっての不安定性、長時間労働者にとってのきつさ、中時間労働者にとっての将来や人間関係の面での閉塞性……。それらはどれも、ふつうの人間にとって耐えがたいほどの限度に達しているように見える。
もちろんこうした分化は、雇う側の「働かせ方」が生みだしたものだ。これが欲しいか? ならばあれをとことん差し出せ、という取引を、雇う側が突き付けているのだ。では、このようなギリギリの選択肢を、雇う側が提示するようになったのはなぜか。
常に言われる答えは、「グローバルな経済競争が激化したからだ」ということである。確かにそれは否定できない。冷戦の終結や労働費用の安い新興諸国の台頭が、先進諸国における付加価値競争やコスト競争を厳しいものにしていることは間違いない。でも、それだけか?
現在の日本という国における働き方、働かせ方には、他の先進諸国と比べてみても、異様な点がいくつも認められる。週当たり労働時間が50時間以上の労働者の割合は、日本が28%で断トツであり、英米などのアングロサクソン諸国が20%前後で続くが、大陸ヨーロッパは5〜6%に過ぎない。しかも日本における長時間労働者の比率は近年とみに増大している。
また、日本では非正社員の比率が世界的に見ても高く、かつ正社員と非正社員の時間当たり賃金格差も際立って大きい。正社員の勤続年数は他国と比べて長く、勤続に比例した賃金上昇の度合いは大きいが、仕事への満足感は低い。もしグローバルな経済競争だけが原因であるならば、なぜ日本においてのみ、働き方にこのような異様さが見出されるのか?
あるいは、こうも言われるだろう。働き方が多様化し、それぞれに過酷になったのは、90年代の長期不況や団塊世代の中高年化による人件費への圧迫が原因であったが、今やそれらの要因は過ぎ去った、「ロストジェネレーション」は不遇だったが今後は是正がなされるだろうと。
実際に、新規学卒者の正社員採用は活発化しているではないかと。確かにそういう面もある。高校や大学の新卒者に対する求人倍率や内定率は2003年頃に底を打ち、その後は回復に向かっている。
しかし、事態はそれほど一過性のものだろうか? 現在と将来は楽観していいものか? 2007年時点でも、新規大卒者の約7人に1人は、非正社員や無業のまま卒業を迎えている。
しかも、新規学卒時点の統計だけでは事態を正確に把握することはできない。学卒時に正社員として就職した後、早期に離職する者の比率は、高卒者では半数、大卒者では3人に1人という高止まりが変わらず続いている。若年者の中での非正社員の比率もジリジリと増え続けている。そして、いったん非正社員や無業になった者を正社員として受け入れる、企業の間口が大きく広がったわけでもない。
さらには、正社員か非正社員かだけが問題なのではない。すでに述べたように、正社員の中にも過重な働き方や未来のない働き方が広がっている。それぞれに極限的な面を持つ、多様な働き方の分布に少し変動が生じたとしても、それらの中身がよい方向に向かっているという兆しは何ら明瞭ではない。
要するに、事態はグローバル経済や一過性の景気・人口要因だけでは説明できないのだ。 私には、日本では働き方、働かせ方に関して、雇う側のフリーハンドが大き過ぎるとしか思えない。
もっとも90年代のある時点までは、そうしたフリーハンドは「庇護」という恩典と表裏一体だった。雇用の保障や職業能力の伸長、報酬の伸び、様々な福利厚生が存在したからこそ、働く側は雇う側に対して働き方や職種・勤務地の配属の面では身を委ねることもできた。
しかし今、雇う側は庇護というやさしい顔をくるりと反転させ、鬼面をさらしながら従来以上のフリーハンドを行使するようになっている。働く側にとっては、見る影もなく痩せ細った恩典をかろうじて得るために、かつてよりずっと大きな代償を払わなければならなくなっているのだ。
そして、代償の中身が立場によって異なるために、働く者は互いのつらさがわかりにくく、むしろ自分とは違う層への羨望混じりの憎悪を掻き立てられることになる。
長時間労働者は短時間労働者の自由を憎み、短時間労働者は中時間労働者の安定に嫉妬し、中時間労働者は長時間労働者が仕事に没入することを嗤う。
あいつら、いい思いをしやがって! それ以上贅沢を言いやがるな!
違う。皆が同じひとつの構造の中に投げ込まれているのだ。
私のつらさとあなたのつらさは異なるが、私が今のつらさから逃れようとしたとき、出くわすのはあなたと同じつらさなのだ、という認識こそが正しい。
だからこそ、働く側は、個々に、そして皆で、雇う側のフリーハンドに対抗しなければならない。あちら側に偏り過ぎた取引の主導権を、こちら側に引き戻す必要がある。
告発や、交渉や、法への準拠や、市場行動や、投票行動や、あらゆる行為を通じて。紙や、画面や、声や、体や、あらゆる媒体を使って。路上で、会議室で、法廷で、カフェで、あらゆる場所で。
ほんだ・ゆき/1964年生まれ。東京大学大学院教育学研究科准教授。著書に『若者の労働と生活世界』(大月書店・編著)、『多元化する「能力」と日本社会』(NTT出版)、『若者と仕事』(東京大学出版会)、『ニートって言うな!』(光文社新書・共著)など。最新刊に『「家庭教育」の隘路―子育てに強迫される母親たち』(勁草書房)。
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