PARC TOPオルタオルタ2007年2月号



「人文」の未来

文=宮崎裕助


 「人文」という言葉から、どんなイメージをもつだろうか。なんだか漠然としているが、かしこまった印象、どことなく権威的で、古めかしい感じをもつかもしれない。

 さしあたりはそれを、人文科学、人文書、人文教養、等々に結びついた文系的な知の総称だと了解しておこう。しかし実のところ、私のような、学問としての「人文」にたずさわる者にとっても、いまやその実体や役割が何なのかをきちんと説明することは難しくなってきている。

 もともと人文学(humanities)の語源をなすフマニタス(humanitas)という言葉に込められていたのは、古代ローマ・ラテン文化以来キケロらの文人が培ってきた、人格形成にふさわしい知識・教養のことである。

 これは、人間固有の価値を表現し、全人的な教育の基礎をもたらすとされてきた。自然科学が自然界の物体や有機体という客体を研究するのに対し、人文科学は、価値の源泉たる人間主体そのものを探究する研究として、いわばそれ自体が価値創造の基盤、つまり文化や啓蒙の発展を担う普遍的な知の基盤とみなされたのである。

 しかし20世紀以降、「人文」は大きな岐路に立たされている。二度の世界大戦を経た人文知の反省は、文化や啓蒙の普遍的な価値を信奉することに徹底的に批判の矢を浴びせた。戦争の途方もない野蛮はまさに文明社会の産物だったからである。

 その後、とくに冷戦終結以後明白であるように、イデオロギー対立を介した理念の追求は、リベラルな資本主義=市場中心主義の価値観へとなし崩しに一元化され(グローバリゼーション)、文化や啓蒙の普遍的な発展を目指して人類が一丸となって刻苦勉励するという大文字の物語は、事実上リアリティを失っている。時代の大きな趨勢からすれば、人間の価値基盤となる理念や思想を切り拓くといった人文知の旧来の役割が衰退しつつあるのは避けがたいことのようにみえる。

 ならば、いま「人文」はどこへ向かうべきなのだろうか。「人文」の知に未来はあるのか。あるとすれば、人文知が、私たちの生きる現代の社会に対してもつ新たな可能性とはどのようなものとなるのだろうか。

 あまりにも大きな問いだが、この問いかけに少しでも答えるために、なにがしかの手がかりを探ってみたい。ここで思い浮かんでくるのは、「アーカイヴ化の技法の創出」と呼びうるような可能性である。

 分かりやすい現象をとり上げよう。現代の資料集成(アーカイヴ)は、ただ図書館のものではなく、デジタルデータ化されることでますます手軽にアクセスできるものとなっている。たとえば、大量の文字情報の中から目当ての言葉を検索したり、その要点をつかんだりすることは以前よりもはるかに容易になった。インターネットで「Google」の検索エンジンや「Wikipedia」などの事典サイトでキーワードを入力すれば、たちどころに一通りの情報を得ることができる。

 だが問題なのは、一方で、そうして手に入る情報が手軽であればあるほど平板化し、同じような内容へと一元化される傾向があるということ、他方で、導かれるがままにより詳しい情報を手に入れようとした途端、次々に関連事項や細部がのべつまくなしに押し寄せ、たちまち情報の渦に呑み込まれてしまうということである。

 知りたい情報がないというわけではなく、あまりに多すぎるのだ。多すぎて本当のところ何が知りたかったかも分からなくなるほどだ(検索エンジンを使い込んでいると、何かを知るために検索するというより検索自体が自己目的化するという転倒がしばしば起きてしまう)。

 サイバースペースには、一方でデジタルテクノロジーを通じて貧しく一元化された情報があり、他方では大量かつ多方向のベクトルをもつ言葉の集積が潜伏かつ散乱している。

 いま、ますます必要になっているのは、情報の量を追求する以上に、それらの言葉の破片を取捨選択し新たに組み合わせ編集しまとめ上げる技法、すなわち、言葉の連関が織りなす諸層を異なったレヴェルで捉え直し、解きほぐし、組み換え、ふたたび編み合わせることで、私たちの言語体験をたえず活性化することのできる「アーカイヴ化の技法」とでも呼ぶべき知ではないだろうか。

 実のところ、20世紀の人文学が発展させてきた知の核心のひとつは、そうしたアーカイヴ化の技法をつくり出すことにあった。いまや人文知のアーカイヴが対象としているのは、たんに図書館の文書資料の集積のみならず、電子データ化された文字情報から洞窟に刻まれた壁画にいたるまで、私たちの「生の現実」を媒介する言語メディアとしての、あらゆる痕跡の集積である。

 そのようなアーカイヴをアーカイヴ化の技法そのものとともに創出することで、現代の人文知が目指してきたのは、いうなれば、言葉が言葉そのものの可能性としてみずからの厚みを取り戻し、言葉自身がおのずと語りはじめるまでにその存在を肯定すること、そのことで可能になる《言語的な出来事》をたえず新たに到来させようとすることであった。

 そうした試みの範例として私の念頭にあるのは「新たなるアルシヴィスト(文書保管人=文献学者)」として人文科学の考古学を打ち立てたミシェル・フーコー、アーカイヴの遺産継承として「脱構築」を生涯実践し続けたジャック・デリダ、といった人文知の巨人たちの仕事である。

 デジタルアーカイヴが人文知をやせ細らせていると言いたいわけではない。電子データの次元においても、コピー&ペーストによる匿名的な反復、インターネット空間でのハイパーリンクによるクロスリファレンス、ブログのトラックバックの機能など、私たちの言語活動が固有の強度において増幅し自律化してゆく特異な様態が生まれつつあるように思われる。

 そうした言葉の潜勢力を、たんなるデジタルデータへと一元化された情報として死蔵してしまうか、新たな言語的出来事の生起に向けてふたたび組織することができるかどうかは、来たるべき人文知の使命を、まさにいま述べたようなアーカイヴ化の技法の方へと向け換えることにかかっているだろうと私は考えている。


みやざき・ゆうすけ/1974年生まれ。日本学術振興会特別研究員。哲学・表象文化論。共著に『実存と政治』(理想社)、『いま、哲学とはなにか』(未來社)、共訳書に、ジャック・デリダ『有限責任会社』(法政大学出版局)。

(PARC)

ページの先頭へ戻る