PARC TOPオルタオルタ2007年5月号



当事者とは何か

文=岡 真理


 当事者とは何かということは、日本社会に生きる者たちにとって、戦後責任という歴史的責任の問題を考える上で深くかかわる問いである。世代も境遇も異なる者たちそれぞれが過去の問題に対してどのように当事者性を分有し、それに対する責任を負っているのかという問題は、複雑であり緻密な議論を要するが、今回は、それとは全く異なった観点から「当事者とは何か」という問題について考えてみたい。

 2004年10月、イスラエル占領下のガザで、通学途上の13歳の女子生徒イーマーン・ハマースがイスラエル兵に射殺された。遺体からは十数発もの弾丸が摘出され、この事件はインターネットで瞬く間に世界に発信された。イスラエル政府に対する抗議行動も呼びかけられた。

 すると時を措かず、「兵士が少女を撃ったのは、彼女が通学鞄の中から爆発物を取り出し、監視兵に向けて投げようとしたからだ」という記事が登場する。この相対立する主張を前に私たちはどのように考えるだろうか? 問題に精通していない大多数は、直接ことの真偽を確認する手立てなどないのだから、客観性の原則に立って判断を留保せざるを得ないだろう。

 翌05年8月、イスラエル政府はガザ地区から全入植地を一方的に撤退させた。あくまでも入植地を出て行くことを拒んだユダヤ人住民たちは、軍に強制排除された。このときイスラエル政府は、ガザにプレスセンターを設置、世界中から集まった報道関係者は、住み慣れた家から引き剥がされる住民たちの悲痛な姿を連日、大きく報道した。ある日の日本の新聞の見出しは「良心と命令のはざまで」。兵である以上逆らえない住民強制排除の命令と、同胞をその我が家から引き剥がす人間としての良心の痛みの板ばさみになる兵士たちの葛藤についての報道だった。

 ところで、入植地撤退の前も後も、ガザの国境はイスラエル軍によって厳しく管理され、第三者がガザに入るのは至難である。ジャーナリストもNGO関係者もイスラエル当局の許可なくしては入れない。イーマーンの死の真相が曖昧なまま忘却に付されてしまうのも、一つにはそれを多くの第三者が究明するのがきわめて困難だからだ。

 一方、第三者の立ち入りが厳しく制限されたそのガザに、イスラエル政府はプレスセンターを設置して世界のメディアを招く。入植地撤退とはそれほどに、イスラエル政府にとって世界に積極的に知らしめたい出来事であり、日本のマスメディアはその期待に大いに応えたと言ってよいだろう。

 だが、パレスチナ問題について知る者なら、「良心と命令のはざまで」と題された記事を読んで自問せずにはおれないはずだ。この兵士たちは60年前、ユダヤ人国家建設により80万ものパレスチナ先住民が、その故郷から根こそぎ引き剥がされて難民となり、以来、今日まで、国際社会が認める彼らの帰還の権利をイスラエルが否認し続けるために、400万人もの人びとがいまだ異邦で難民として生きることを強いられているという事実に対して、いかなる良心の呵責を感じているのだろうかと。

 イスラエル国家も国民も―ひとつまみですらない、ごく少数の者を除いて―60年前、パレスチナ人先住民に対して行使された民族浄化の暴力を否認し続けている。パレスチナ問題の根幹にはこの歴史的不正が存在する。

 「良心と命令のはざまで」といった文言が象徴するように、日本のマスメディアのガザ撤退報道は、パレスチナ問題がいかなる問題であるかという歴史的文脈およびシャロンの撤退策がいかなる現実政治に基づいてなされたものであるのかという政治的文脈については語らず、記者の目の前で展開している出来事に目を奪われて、我が家から引き剥がされる人びとの悲痛のみを報道し、イスラエルは自国民にこれだけの痛みを強いてまでも「平和」を追求しているのだ、というイスラエル政府のジェスチャーをそのまま追認することとなった。まさにイスラエル政府の思惑のままに。

 パレスチナ問題に関し、日本社会に生きているこの私たちが当事者か? と問われれば、ほとんどの者が「否」と答えるにちがいない。だが、右に述べた二つの例は、私たちが問題の直接的当事者で「ない」がゆえに逆に、問題の不可欠の構成要素となっているという事実を教えてくれる。

 問題の先行きに大きな影響力をもつ国際世論を構成する第三者たち―私たちのことだ―は、メディア戦略の重要なターゲットとして、つねにすでに問題に組み込まれているのだ。イスラエル国家にとって不都合な真実―たとえば、イーマーンの死に代表される占領下における無数のパレスチナ人の死―については、私たちに是非の判断を留保させるような対抗的言説がネットを活用して流される。

 真実は藪の中だ、どちらが正しいと言えない、と私たちに思わせるだけで作戦は成功だ(これは、いわゆる「否定論」者の常套手段である)。他方、自分たちに都合のよい出来事は、マスメディアを舞台に全面展開され、その両面作戦で、問題をめぐる私たちの認識は、一方の側にとって極めて都合のよいものになる。

 南アフリカのアパルトヘイト以上のレイシズムであると言われる、イスラエル国家によるパレスチナ占領が、そのようなものとして世界的に広く認識されない理由の一つとして、問題をめぐる私たちの認識が一方の当事者に都合よく操作されているという事実がある。それは、逆に言えば、「第三者」が、問題の解決に積極的な影響を与えずにはおかないから、問題にとって致命的に重要な構成要素として彼らに認識されているからにほかならない。私たちの無知につけこみ、私たちをナイーヴなままに留めおくことが、彼らの利益となる。

 私たちの無知、私たちのナイーヴさが、問題の不可分な一部を構成し、パレスチナ人に対する抑圧の永続化に貢献しているとすれば、このとき、私たちもまた抜き差しがたく問題の「当事者」なのではないだろうか。


おか・まり/1960年生まれ。京都大学総合人間学部准教授。専門は現代アラブ文学。著書に『記憶/物語』(岩波書店)、『彼女の「正しい」名前とは何か』『棗椰子の木陰で』(青土社)など。

(PARC)

ページの先頭へ戻る