PARC TOPオルタオルタ2007年7月号



22歳 洗濯屋。夢を持つ人びとを憎んだ日々

文=平井 玄


 「31歳。希望は、戦争。」は、かって私自身の言葉だった。

 私が31歳の時は1983年。まだ新宿二丁目の実家で洗濯屋をやっていた頃だ。そのちょうど10年前の1973年、学生運動の流れで大学に居づらくなり、父親が配達中にバイク同士の衝突事故で半身不随になったことをキッカケに、傾きかけた家業に手を染めていた。大学も運動ももういいや、という捨て鉢な気持ちもあったが、この運命の転がり方の中から何か掴むしかない、という開き直った気分もあった。優等生面を一皮剥けば、いかがわしい岡場所育ちの「毒を喰らわば皿まで」という根性もどこかに隠れていたらしい。

 ここは郊外の住宅地ではなかった。南は新宿旭町(現高島屋前)から北は歌舞伎町と大久保の境目辺りまで。夜の商売が9割を超えるわが生業のクライアント様は尋常な方々ではなかった。自転車を転がす配達営業でどなられ、脅され、だまされたことは数知れず。朝8時から夜中の1時、2時まで、母と弟、家族3人で汗まみれ、埃まみれ、煤まみれで働くしかない。

 それでも家業は細っていく。都心化が進む新宿はもう町場の自営業がやっていける場所ではなくなっていた。近辺の店も次々に店を閉める。思えば「シャッター街化」のはしりだっただろう、これは。

 ところが、リハビリに通いながら仕上げ作業に復帰した父にも、がんの転移に怯えながら小さな体を立ち仕事にすり減らしてきた母にも、戦中戦後とリヤカーを引いて店を守り脳溢血で寝たきりの祖母にも、廃業など「死亡宣告」に等しい。皆この旧青線地帯の店に震えるほどの愛着を持っていた。戦後蓄えた多少の資産も入院代や治療費に底が抜けたように出ていく。

 ちょうどこの頃、山田太一脚本による「ふぞろいの林檎たち」というテレビドラマが放映される。私が観ていたのは、しかし中井貴一ら20代の主人公たちではなく、小さな酒屋を継いだ30代の長男・小林薫の背中である。家族で営む商店に宿った、影が吹き寄せられたような暗さがそこには張りついていた。

 小さな土地をすでに地上げされてボロビルに組み込まれていたから、貸しビルにもできない。「没落する小ブルジョア」だって? そんな紋切り型が何になる。労働者でも資本家でもないこの苦しみには、どんな大義名分もなかったのである。頭蓋骨に染みついた西欧マルクス主義も第3世界論も何も答えてくれない。

 私は「夢」を憎んでいた。「夢を持つ人びと」を憎んでいた。とりわけ大企業に勤める人間たちこそ「敵」だったのである。この国には「社会」などなく、あるのは「会社」だけだったから。そして工場で働く労働者たちよりも、私は「会社」からはるかに遠かったのである。

 すえた酒精の臭いが低く垂れ込めるこの街にも、オフィス化の波は押しよせてくる。仕立てのいいスーツを着た表通りのビジネスマンたちには、油だらけの飲食店ビルに裏口から出入りする汗じみたTシャツの洗濯屋など目にすら入らない。まして売春街の裏通りである。そして、新聞社が編集した用字用語集で「洗濯屋」が差別語とされ「クリーニング店」と言い換えられていることを、私は知らなかった。

 1974年8月30日、丸の内の三菱重工本社ビルが爆破された。死者8人、重軽傷者376人を出したこの闘争を、私はほとんど熱狂的に支持した。プレス機械を操作する昼間も、自転車のハンドルを握る夜も、胸のうちから「ついにやった!」という思いが噴き上げてくる。街中が瓦礫に埋まった廃墟に見えてしかたがない。

 しかしこの思いは、実行した人たちのそれとは少しズレていただろう。「国家と一体化した最大の侵略企業」という点に異議はない。事実その通り。だが「反日」というより前に「都市中枢を間断なき戦場と化す」という一点に爆発的に反応してしまったのである。70年代の日本社会を覆っていた空騒ぎの「夢」をこなごなに砕くその行為は、もう「歓喜」そのものと言うしかない。

 この時私は「22歳 洗濯屋。希望は、戦争。」だったのである。若かった、というだけではない。殺された人たちには下請企業の臨時社員がいたかもしれない。道には道路工事の日雇いたちがいたかもしれない。コーヒーを近くの喫茶店から運ぶアルバイトの娘も、それどころか、管理部門に配送に来た洗濯屋の若造が自転車を停めて路上にいた可能性さえある。それは理解していた。それでも、この「戦争」を肯定したい、という欲望をどうすることもできない。

 ガリラヤの予言者の言葉を逆さ吊りにして、「正しい者たちは幸いである。彼らは天国に行くだろう。だが俺は地獄に行く」、そんな言葉を酒とともに呑み下す夜が続いた。

 そうはいっても、病を患い、あるいは杖を放せない親たちと共に歩む頼りない洗濯屋の小倅に過ぎない。その上、地道な職人肌というのでもなかった。零時過ぎにどうにか店のカーテンを閉めて外に飲みに出ると、朝まで帰ってこない。と思えば得意先回りが遅れ、方々から荒っぽい電話が入る。決して真面目で一途な零細自営業の後継者などではない。それでも時間は無慈悲である。親の加齢は進み、店の経営はますます苦しくなっていく。

 そうした果ての1983年、ちょうど31歳の頃から山谷の街に通うようになった。そこに住む日雇い労働者たちの闘いを手伝い始めたのである。私が家族とともにそこにしがみついて働く路地の空気が、日雇いの街の路面から立ち上る気風に吸い寄せられたとしか思えない。

 真昼間から女たちの下半身にまつわる罵り合いが響きわたる路傍から、焚火がくすぶる路上、頬に感じる垂れ流された小便の冷たさに朝を知る人たちがいる街へ。そして右翼と警察の共謀で佐藤満夫と山岡強一が殺され、一本の映画ができる。仲間たちと走り回る身には、もう洗濯屋の生業を続けることは限界に達していた。

 私はますます夢を憎むようになっていた。ところが、どうやらこの頃からあの「戦争」への餓えるような欲望が薄らいでいったようだ。殺され傷つけられた人たちへの罪責というだけではない。むしろあの「戦争」こそが一つの「夢」だったのではないか、と。

 今日、人は夢によって支配されている。夢を、無意識の領域を操ることこそ、力を握るものたちが日夜心を砕いている最重要事項である。意図しなかったとはいえ8人の死者を出し、砕け散った窓ガラスが降り注いだあの映像は、私の中に一つの心像として棲み着いた。そしてそれは、強い力を持った「夢」として私を支配するようになったのである。

 私は今も夢を憎んでいる。夢見る人々を憎み続けている。そしてだからこそ、あの「戦争」から遠ざかることになった。

 月に何日か、IT社会の夢を謳う専門学校を出たオペレーターたちがズラリと席を並べる工場へ出かける。校正のフリーターとして時給を稼ぐためである。残業代もなく、昼食一時間のギャラも引かれて働く彼らの横顔を見て思うのは、PCの前に並ぶその脳髄はあのIT専門学校で金を払って見せられた「夢」を憎んでいないのか、ということである。


ひらい・げん/1952年生まれ。思想系、音楽論系フリーター。著書に『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』(太田出版)、『引き裂かれた声』(毎日新聞社)、『暴力と音』(人文書院)、『破壊的音楽』(インパクト出版会)ほか。

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(PARC)

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