PARC TOPオルタオルタ2007年7月号



エセの人間工学に抗して、より正しい人間工学を
〜下北沢の再開発計画と『東京から考える』をめぐって〜

文=毛利嘉孝


 東京・下北沢の再開発計画とその反対運動については、すでに知っている人も少なくないだろう。下北沢駅近くに環七と同じ程度の都市計画道路補助54号線を建設するのに伴い、自動車がアクセスしやすいように駅前広場を新たに開発し、駅前広場と54号線を結ぶ区画街路10号線を建設しようというのが東京都と世田谷区の計画である。

 この計画が、下北沢駅前の商店街の再開発を含み、現在の下北沢のにぎわいを奪い、「歩いて楽しめる街」としての下北沢の魅力を殺してしまうというので、「Save the 下北沢」をはじめ、地元で働く学生、ミュージシャンなどを中心に反対運動が起こった。けれども、その反対の声の大きさにもかかわらず、東京都と区は着々と計画を進めている。計画変更はなかなか厳しいというのが実情だ。

 ところで、その下北沢の再開発と住民運動について、東浩紀が、北田暁大との対談『東京から考える』(NHK出版)の中で、「僕は別に道路開発に賛成ではない」と一応の前置きをした上で、「駅前開発は本当に必要ないのか」「<サブカル都市・下北沢を守れ!>は<高級住宅街・青葉台を守れ!>と同じ論理じゃないのか」と問いかけている。この問いかけはけっして思いつきではない。この本の中の東の議論は一貫している。

 ポストモダン社会は多様な人間集団の共生を公準としている。したがって、街には老人も子どもも来られなくてはならないし、いろいろなひとが楽しめなければならない。だとすれば、やはり清潔で安全な「人間工学的に正しい」街区を作るしかない。(194頁)

 東の議論によれば、このポストモダンの公理が守られる限り、セキュリティやバリアフリーの論理が優先し、どの街も似たようなものになるのはしかたがない、下北沢の再開発もある程度やむをえないというのだ。

 対談相手の北田も反論しているように、実際には「下北沢フォーラム」が作成した代替案は、セキュリティやバリアフリーの問題に関しては最大限の注意が払われていることは、最初に確認しておきたい。現在の社会が多様な人間集団の共生を公準としているという前提は、反対運動の中でも共有されているのだ。

 それよりも問題なのは、東のいう「人間工学的に正しい」「だれにでもやさしい公共空間」というエセの科学、エセの理念である。表面的に耳障りのいいこうした語は、けれどもそもそも都市空間がもっている政治的・経済的・社会的な不均衡を覆い隠している。空間は決して中立なものではなく、一定の権力関係の下で生産されたものなのである。

 たとえば、駅前には必ず車のロータリーがなければいけないという発想は、日本経済を支える巨大な自動車産業によって規定された都市イデオロギーである。

 ヨーロッパに目を向けると、フランスのストラスブールやオランダのアムステルダムなど、自動車の都市中心部への進入規制を設けている都市は少なくない。

 バリアフリーにしても、ヨーロッパの多くの都市は明らかに日本の都市より進んでいる(イギリスから日本に戻ったときに、イギリスでは都市部でベビーカーをたたんで運ぶ必要がないのに対し、日本はあまりにも段差と階段が多いのに愕然とした記憶が個人的にもある)が、このことはバリアフリーの都市が無味乾燥で「中立的な」都市であることを意味しない。それぞれの都市の事情に応じて多様な解決策が存在し、都市は歴史的な経緯を踏まえた上でそれを生かしつつ、適切な解を見出してきたのだ。

 「だれにでもやさしい」公共空間とは、だれのものなのだろうか。「だれにも」というのはフィクションに過ぎない。「だれにでもやさしい」という抽象的な空間は、皮肉なことに、実際にはだれにも楽しむことができない空間かもしれない。本当は一部の人の利益に与しているのに過ぎないのに、それがあたかも全体の(だれにでも享受できる)利益を代弁しているようにみせているだけなのである。

 下北沢の再開発が、行政と一部の商店会のメンバー(その少なからぬ構成員は、言うまでもなく地権者である)の間だけで決定され、住民参加の合意形成不在のまま進められていることは象徴的である。そこには、下北沢の歴史や文化を育んだテナントや飲食店から、そこで遊んできた人びとまでが完全に排斥されてしまっている。このことは「都市とはだれのものか」という問いにつながる。都市は土地所有者だけのものではないのだ。所有と権利の関係が問われなければならない。

 下北沢の開発には、総額300億円もの予算が計上されているという。このことによって利益を得るのは、大手のゼネコンやデベロッパーであり、地価向上が見込まれる地権者である。その結果、多くの小規模な店舗が追い出され、そこで生活していた人は基盤が失われてしまう。

 東が引き合いに出すバリアフリーやセキュリティとは、こうしたリアルな資本と土地、そして階級をめぐる不均衡を隠蔽する行政と資本が事後的に生み出した方便に過ぎない。300億円を使わなくても、修復型の開発で高齢者や子ども、障害者にやさしい街はつくれるだろう。「下北沢フォーラム」がすでに十分具体的な提言を行なっている。

 東のいう「ジャスコ化」とは、都市がバリアフリーやセキュリティを追求するための低コスト型の処方箋だという。しかし、本当だろうか。そこには、すでに土建屋と自動車産業、そして官僚主義に主導されたポストモダン資本主義体制下のデマゴギーが紛れ込んでいないだろうか。

 下北沢を守ることは、彼が誤解しているように、一部のサブカル少年の既得権益を守ることではない。そうではなくて、東がいつの間にか知らず知らずに取り込まれている資本主義の嘘(マルクス主義的な意味でのイデオロギーなどではない。端的に「嘘」である)をきちんと指摘し、「工学」という行政的な用語をあえて使えば「より正しい人間工学」を模索することなのだ。


もうり・よしたか/1963年生まれ。東京芸術大学准教授。著書に『ポピュラー音楽と資本主義』(せりか書房)、『文化=政治 グローバリゼーション時代の空間の叛乱』(月曜社)、編著書に『日式韓流「冬のソナタ」と日韓大衆文化の現在』(せりか書房)など。

毛利嘉孝 少年タケシ―はじめてのDiY
http://www.fujitv.co.jp/takeshi/column/mouriyoshitaka/index_mouriyoshitaka.html

(PARC)

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