PARC TOPオルタオルタ2007年8・9月号



ロストジェネレーションは「大人」になれるか?

文=阿部真大


 未来が閉ざされて目の前が真っ暗になるような経験は、受験戦争と就職氷河期をかいくぐってきた「ロストジェネレーション」の人々(現在、25歳から35歳くらいになる)にとってはあまりに日常的に訪れるものだろう。だから、私が、拙著『搾取される若者たち』(集英社新書)で描いたある種のバイク便ライダーがもっているような心性(未来のない危険労働の現場に進んで飛び込む、やけっぱちで刹那的な「やりたいこと」志向)は「そんなこと知ってます」と一蹴されかねない。

 それでもバイク便ライダーたちの物語を書こうと私が思ったのは、若者の「やりたいこと」志向を彼らの「心理」の問題へと回収しようとする言説が、非常に多く出回っていたためである。

 確かにバイク便ライダーたちはひどい労働状況のなかに置かれているし、未来も明るいようには見えない。そんななかで、好きな仕事にのめり込んで刹那的に生きる彼らを批判するのはたやすい。しかしそれは、未来への不透明感という社会的な要因から帰結された彼らの「生きる知恵」でもあることに注意しなくてはならない。

 一般に、雇用の流動性が高まると、人は少しでも流動的でないものを求める。その確固たるものを自分のなかに求めたのが「やりたいこと」志向であった。ちなみに、その逆に社会に求めたのが「公務員志向」である。確固とした「やりたいこと」、または確固とした「職場」のいずれかを手に入れることで、彼らは流動的な社会にあって何とか正気を保とうとしてきたのだ。

 それらはともに、流動的(liquid)な社会で少しでも堅固(rigid)なものを求めようとする心性の現れで、その意味で、しばしば言われるように、「やりたいこと」志向と「公務員志向」は対極に位置するものではない。それらは表裏一体の関係なのだ。そして、バイク便ライダーとは、「やりたいこと」志向を象徴する存在としてある。

 しかし、刹那的な「やりたいこと」志向が長続きすることはない。その意味で、『搾取される若者たち』は「青春の終わり」の物語だとも言える。30歳も過ぎて体も無理がきかなくなり、結婚して子どもを産んでマイホームを買ってという「普通の幸せ」に惹かれるようになった場合、「やりたいこと」だけではあまりにキツすぎる。そんなとき、「やりたいこと」志向から公務員志向へとベクトルが変わってくる。「少し腰を据えて資格でもとろう」というわけだ。

 高齢者介護を仕事にするケアワーカーたちの実態に迫った、拙著『働きすぎる若者たち』(NHK生活人新書)は、まさにそうした「再生」に賭け、そして裏切られた人々の話である。「介護福祉士」という資格、または「介護の資格をとれば生活が安定する」という評判をあてにして資格をとったはいいが、介護の仕事は、実際に働きはじめてみたら長続きしない袋小路職(Dead-end Job)であった。そんな悲劇は、ケアワーカーたちに対するインタビューのなかで何度も聞かれる話だった。

 「やりたいこと」志向のバイク便ライダーに対しては「そろそろ目を覚ませよ」なんてことも言えたかもしれないが、ケアワーカーに対してはそんな無責任なことは言えない。毎年の授業料を何十万円も払って資格をとりこの職場に入ってきた人もいるわけで、原付免許だけで始められるバイク便ライダーたちとはわけが違う。最後の力をふりしぼって信じたものに裏切られた彼らの絶望は、「好きを仕事に」で燃焼したバイク便ライダーたちの挫折とは違い、深く、重い。

 現在、私は「キャリアラダー」についての調査・研究をしている。キャリアラダー(キャリアの階段)とは、職務内容や達成の指標を厳密に規定し、そこで頑張った人が頑張っただけキャリアアップできる、「努力が報われる」システムのことだ。そこでは、専門性を確立することにより、明確なキャリアアップの道筋を提示することが目指されている。

 ただ、実際にはキャリアラダーをつくりやすい職種とそうでない職種がある。私たちにできることは、キャリアラダーがあってもよいはずなのにないところを見つけ出し「未来のある安定した仕事」の割合を少しでも増やしていくことしかない。そんな個別的な陣地戦である。

 たとえばケアの現場。介護士も看護師も慢性的な人手不足に悩まされており、外国から労働者を入れようという動きが加速している。しかし、時給900円の介護士のなかには報酬さえ上がれば、この仕事を続けたいと願う者もいる。つまり、実質的には近似した職務内容でありながら、報酬に明確な隔たりのある介護士から看護師へとステップアップできればやめなくて済むような日本人の介護士もいるのだ。働きながらそのステップアップが可能となるようなシステムの構築、つまりは介護士から看護師への段階的なキャリアラダーの構築が、今、求められている。

 そのような取り組みが、ネオリベの先進国であるアメリカですでに行われている。この手の問題に対する対処法もアメリカは先進国であるのだ。Joan Fitzgeraldの「Moving up in the New Economy」(Cornell University Press)は、流動的な社会において「人並みの」生活を可能にするキャリアラダーの方法論を分析・検証した著書である。介護士から看護師へのキャリアアップのプログラムをはじめ、多彩なプログラムの実践例が紹介されている。

 以前、私が出会った保育士の男性はこう言った。「ぜいたくしたいなんて言いません。親と同じような生活をしたいとも思ってません。ただ、300万円の年収が欲しい」と。人並みの生活をしたい――生まれてきた時代が悪かったばかりに社会に裏切られ続け、頑張っても頑張っても報われない悪循環に陥った「ロストジェネレーション」の若者たちの、この本が希望であるかもしれない。つまり、「Moving up in the New Economy」とは、「再生」への戦いの物語であるという意味で、正しく『搾取される若者たち』と『働きすぎる若者たち』の後に位置づけられる作品である。

 『搾取される若者たち』とは「青春の終わり」の物語、『働きすぎる若者たち』とは「再生の裏切り」の物語、そして「Moving up in the New Economy」とは「再生への戦い」の物語である。つまり、現段階での問題は、ロストジェネレーションがいかにして「大人」になることができるかということにある。

 「やりたいこと」に向かって邁進し、それに疲れて安定を求めて、それも裏切られ、しかし、それでも生きていくことをやめない。彼らが「大人」になれないのは社会の側に責任があることを忘れてはならない。彼らが「大人」になって、人並みの生活を送ることができるような社会をどうしたらつくっていくことができるのだろうか。彼らと同様、私の戦いも続いている。


あべ・まさひろ/1976年生まれ。学習院大学非常勤講師。専攻は労働社会学・家族社会学・社会調査論。著書に『搾取される若者たち』(集英社新書)、『働きすぎる若者たち』(NHK生活人新書)、共著に『若者の労働と生活世界』(大月書店)、『グローバリゼーションと文化変容』(世界思想社)、『合コンの社会学』(光文社新書)など。

(PARC)

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