PARC TOPオルタオルタ2007年8・9月号



「言葉にできない痛み」とは何か

文=小松原織香


 トラウマになっていることを語りだすためには、大変なエネルギーが必要だ。だからこそ、「話したい/話さなければならない」という思いが生み出す言葉は、多くの人を釘付けにする。

 私は大学生のとき、小さな教室で行なわれた慰安婦問題についての勉強会に参加したことがある。ある学生が、「日本は戦争中に、朝鮮を近代化してあげた。だから、朝鮮人は感謝すべきだ」と主張した。十人ほどの老若男女の参加者が、しーんと黙り込んだ。

 ある年配の男性が、自分は在日コリアンである、と前置きして、語り出した。「私たちは、日本が敷いた鉄道を毎日眺めていた。あれは、近代化だった。でも、私たちは一度もあの鉄道に乗ったことがない。だから……」男性は小さな声で、学生の顔を見て、ためらいながら、言葉を探していた。学生は気圧されたように、こわばった顔で聞いていた。男性は怒りも涙もなく、ただ、「そうだったんだよ」と語っていた。

 様々な語りがある。笑っていたり、叫んでいたり、言葉にならなかったり、過剰に饒舌だったり、顔を歪めていたり、無表情だったり。共通するのは緊迫感だ。今、ここで語りを中断させてしまえば、全てが水泡に帰すのではないか、と思わせるような空気ができ上がる。途切れさせてしまえば、消え去ってしまう声を、聞き届けようとする雰囲気が生まれる。

 これが語りの魅力である。多くの研究者が、語りを取り上げ、論じるのはよくわかる。

 ところが、語りは、何度も繰り返すうちに変化していく。内容が変わることもあるが、それ以上に語り手の語りが上手になり、こなれてくる。2005年に、青山学院高等部が「語り」についての短い文章を入学試験の英語の問題に出題し、騒動に発展したことがある。

 その問題文の書き手は、修学旅行で沖縄に行った思い出を綴る。そして、そのとき防空壕で体感した暗闇の強烈な印象に比べ、ひめゆり学徒として生き残った女性の語りは退屈だったとしている。何度も語るうちに、語り方が上手くなっていったのだろうと感じたと書かれる。

 この問題文に対しては、話者を貶めている、という批判が寄せられた。戦争を語り継ぐという、平和への取り組みに対する冒涜だとされた。またある論者は、語り手である女性の歳月に重点をおきながら、繰り返し語る中で、語り手がどれほどの痛みを想起してきたのか、という点に対する想像力が欠如していることを指摘した。

 先にも述べたように、語りには様々な形がある。必ずしも、痛みを想起し、身を切るような再現方法を採らなくても、語りは可能である。そして、痛みを最小限に抑え、傷つく範囲を狭めて、語ることができるような人が出てくる。

 そのような語り方をする人を仮に「語り部」と呼んでおこう。語り手が「語り部」になれば、独特の緊迫感はなくなることが多い。空気に呑み込まれにくいので、聞き手にも余裕が出てくる。だから、退屈だ、などと感じる。その代わり、語られる内容は、スムーズに全貌が捉えられるようになる。断片ではなく、一つのまとまりとして、語りの内容が伝わる。痛みを伝える代わりに、出来事を伝えられるようになるのだ。

 語り手が、語り部になるかどうかは、その人の望みや、置かれている環境、性格や能力、経験の質などによって決められるだろう。語り手と語り部に優劣の差はないし、はっきり二分されることもない。両者の境界はグラデーションになっている。「あの人は語り手、この人は語り部」と、ラベリングすることもできない。語りの中で、双方の側面が、交互にあらわれる。そして、どちらの側面も重要である。だが、問題文の書き手が欲したのは、痛みにもだえる「語り手」だった。

 言語化不可能な苦しみを持ち、声をあげることすらままならない人を、サバルタンと呼ぶ。書き手は、せっかく沖縄まで来たのだから、サバルタンを生で「鑑賞」したかったのかもしれない。

 サディスティックな快楽、「リアルな痛み」への欲望は、グロテスクな映像や写真をインターネットで収集し、自分の肉体を傷つけたがるような、(私も含めた)たくさんの若い人たちに共通するものである。だから、私はこの問題文を読んだときに、この書き手の感覚を不快には思わなかったし、むしろ真実味があると思った(その後の論理展開や設題に対しては、不快に思ったが)。

 「言葉にならない痛み」を抱えていることは、しばしば他人の欲望を掻き立てる。人は、他者の苦しみに興味をそそられる。そして、自分が味わったことのない、未知の痛みを知りたがる。そのとき、過去に起きた出来事そのものが後退し、「痛み」を人類普遍のものとして、自己内に取り込み、共有しようという欲望が顔を出す。

 「ああ、痛い。世の中にはこんな苦しみがあるのか。」彼らは本気で共感し、苦しみ、感じている。だからこそ、サバルタンは、痛みにもだえる様を、ポルノグラフィのようにして表現することを求められる。語り手は、想起される痛みに体を引き裂かれる。しかし、サバルタンが繰り返し語るうちに上手に語る「語り部」になれば、その人は飽きられて捨てられる。一方、需要に応える「語り手」は、消費に食い尽くされるだろう。

 ある社会学者は、私に、痛みを言葉にできない語り手を指して、「この人は存在の金切り声をあげている。だから、声を聞かなければならない」と言った。この言い方は、危険だ。当事者が金切り声でなくなったとき、つまり、痛み抜きに語れるようになったとき、彼らは語るチャンスを奪われはしないか。

 語りに耳を傾けることは重要である。これまで、無視されてきた人たちに焦点をあて、政治の場に問題を持ち込むことも必要だ。一方で、私たちは、サバルタンに魅了され、欲望している自分から、目をそらしてはならない。語りが求められるのは、まだ知られていない真実がそこにあるからだ。それ以上でも、それ以下でもない。

 私たちは、かわいそうな人をみるとドキドキする。そのとき、私たちは、誰のために、何をしようとしているのだろうか。


こまつばら・おりか/1982年生まれ。同志社大学文学部卒業。主な研究分野はセクシュアリティ。

(PARC)

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