「グローバル」との付き合い方
文=廣瀬 純
「グローバル」と付き合うのはとても難しい。なぜか。それは「グローバル」というものがその名の通りとてつもなく大きく、あるいは広く、ぼくたちのイマジネイション(想像力=構想力)の限界をはみ出してしまうもの、要するに「でかすぎる」もの―カントなら「崇高(サブライム)」と言うだろう―だからである。世界中であれほどの数の人々が抗議デモを行ったにもかかわらず、それをものともせずにUSA政府がイラクへの武力侵攻を開始したとき、ぼくたちがいやというほど思い知ったのはまさに「グローバル」のこの「ばかでかさ」であり、それとの付き合いの困難さ以外の何であったか……。
アントニオ・ネグリとマイケル・ハートは、彼らの共著
『〈帝国〉』(以文社)のなかで、この「グローバル」を「〈帝国〉」と名付け、その存在論的な基盤であり、なおかつそれに対する抵抗の主体にもなり得るものを「マルチチュード」と名付けた。「マルチチュード」とはひとつの「両義的な」―善でも悪でもあり得る―存在のことであり、だからこそ、それは「〈帝国〉」そのものをその内から支えるものであると同時に、この同じ「〈帝国〉」を内から突き崩す抵抗主体ともなり得ると謂われるわけだ。
ところで、ネグリとハートが「マルチチュード」という概念を提出したとき、「マルチチュードとはいったい誰のことなのか」という―批判色の濃い―議論が起こった。それは奇妙な議論であった。というのも、ネグリたち自身は彼らの著作のなかで、「マルチチュード」とは今日の地球―資本によって実質的に包摂された世界―に暮らすすべての人々のことである、つまりぼくたちすべてのことであると幾度となく繰り返していたにもかかわらず、いわばそれを括弧に入れるかたちで起きた議論だったからだ。
「マルチチュードとは誰のことなのか」あるいは「自分はマルチチュードなのか」ということがそのような奇妙なやり方で問われることになった主たる理由のひとつは、おそらく、少なくともネグリたちによって提示されたかたちでの「マルチチュード」という概念が、まさにぼくたちのイマジネイションを超えるものだったということにあるように思われる。ネグリらにおいては「マルチチュード」があくまでも「〈帝国〉」との関係のなかでのみ規定され得るような概念として描き出されていたために、「〈帝国〉」概念のもつ「ばかでかさ」を「マルチチュード」概念それ自体もそのまま抱えることになってしまったのだ。
昨年11月にぼくは
『闘争の最小回路』(人文書院)という著作を刊行した。書名にある「闘争の最小回路」とは、ある意味では優れて「〈帝国〉」と「マルチチュード」とが織りなす回路のことであるが、しかしそれでもなおネグリらによって提起されたかたちでのそれとは次元を異にしている。
「マルチチュード」からその「ばかでかさ」を差し引くこと、そして「マルチチュード」をあくまでもぼくたち一人ひとりの身体と脳の次元に定位させること―それはまたパオロ・ヴィルノ
『マルチチュードの文法』(月曜社)の仕事でもあった―。
要するに、ネグリとハートによって描き出された〈帝国〉/マルチチュードの「最大回路」を、そっくりそのままその極小の回路、極小のクリスタル―「力のクリスタル」―にまで縮約すること。「闘争の最小回路」という概念を創造することの必然性はそこにあった。
「〈帝国〉」とは、たしかに、資本によって実質的に包摂された世界―あるいは、世界を実質的に包摂しつつある資本の運動―の名でもあるが、しかしながら同時にまた、資本のロジックによって隅々まで貫かれつつあるぼくたち一人ひとりの〈生〉―あるいは、ぼくたち一人ひとりの〈生〉を隅々まで貫きつつある資本のロジック―の名でもある。
つまり「〈帝国〉」には二つの側面があるということだ。ひとつはその量的な広がりという側面であり、もうひとつはその質的な強度である。「グローバル」あるいは「〈帝国〉」というタームは―おそらくは何にも増してその一般的な語感のゆえのことだろう―とりわけ前者のほうだけを強調する傾向をもっている。そして、この傾向こそがぼくたちと「グローバル」との付き合いを困難なものにしているのだ。
「グローバル」との付き合い、すなわち「グローバル」に対する抵抗は、ぼくたち一人ひとりの〈生〉を貫くその質的な強度を実感することからしか始まらない。「グローバル」の作用点、すなわち敵対性が生起し得る点は、ぼくたち一人ひとりの身体と脳そのものにあるということ。このことをぼくたち一人ひとりがそれぞれの〈生〉の只中において実感することからしか闘争は始まらない。
量的な広がりという側面からのみ「グローバル」「〈帝国〉」あるいは「世界システム」(ウォーラステイン)といったものを語ることは、それらに対する納得のいく説明あるいはレプリゼンテイション(表象=再現前)をもたらすものではあっても、それらのプレゼンス(実在)との無媒介的な接触あるいは敵対をもたらすものでは必ずしもないのだ。
世界を実質的に包摂する資本のグローバル(大域的)な運動は、その運動がぼくたち一人ひとりの〈生〉という無数のミクロな点においてローカル(局所的)に反復されるときにしか成立し得ない。つまり資本による包摂の運動は、ぼくたち一人ひとりの〈生〉を個々に運動それ自身との共振関係に引きずり込むことによってしか展開し得ないものなのだ。
資本と労働とのぶつかり合いは、「やつら=資本家」と「ぼくたち=労働者」とのあいだでだけ起こっているわけではなく、何よりもまず、むしろ、ぼくたち一人ひとりの〈生〉の只中において起こっている。ぼくやきみの〈生〉は、世界という「全体」に対してその「部分」をなしているのではない。むしろ、それぞれが個々に「全体」をそっくりそのまま反復するものとしてあるのだ。
「グローバル」と付き合うこととは、したがって、きみがきみ自身と付き合うこと、要するに自己統治の問題なのであり、自己触発の問題なのだ。
ひろせ・じゅん/1971年生まれ。龍谷大学専任講師。著書に『闘争の最小回路』(人文書院)、『美味しい料理の哲学』(河出書房新社)。訳書に、トニ・ネグリ『芸術とマルチチュード』(月曜社)、パオロ・ヴィルノ『マルチチュードの文法』(月曜社)など。
廣瀬 純インタビュー
http://conflictive.info/contents/interview/hirose/index.htm
(PARC)