PARC TOPオルタオルタ2007年12月号



地方都市と社会的なものについての点描

文=宇城輝人


 見慣れた地方都市のロードサイドを想起してみる。うどん・そば、中古車ガリバー、スーツの青山、メガドラッグストア、ヤマダ電機、マクドナルド、墓石屋、消費者金融の無人店舗、学習塾、とんかつ、ガソリンスタンド、アダルトDVD本屋、カラオケ、ネットカフェ、ボーリング場、広大な駐車場越しに見えるショッピングセンター、ファミレス、県立大学の標識……。

 都会的文法あるいは農村的文法から自由になり、ある種の効率性にもとづいて配列された欲望は、剥き出しであるがゆえにかえって味気ない記号に回収されてしまう。毒々しい外観とは裏腹に無毒化されたかのようだ。わかりやす過ぎる記号は、人間の行動が実体的な生活へと結晶化するのを阻害する。内攻するエネルギーの震え。

 地方はあいかわらず、いやむしろますます都会と対立しているのだが、それはもはや田舎としてではない。「郊外的なもの」として対立する。旧市街を意図的に迂回した幹線道路に沿って地方都市が再編され、郊外化のプロセスに飲み込まれたのは80年代後半から90年代のことだった。都市化の波及と深化。それと手を携えて進んだのが労働の雇用化であっただろう。

 1985年に約74パーセントであった就業者人口に占める雇用者の割合は、バブル期とその後の不況期を通じて変わらずほぼ同じ調子で増加しつづけ、2001年には約83パーセントに達した(非正規雇用者を含む全国平均。労働力調査による)。この比率は今も増加傾向にある。

 2000年代にわたしたちが目撃したのは「賃労働社会(societe salariale)」の最終局面だったと言えるだろう(註)。この意味は二重である。

 多様な労働を「雇われてサラリーをもらう」形態に整序する雇用化(雇われることが法的保護につながる)があらゆる職種に浸透し、おそらくピークに達しつつあること。雇用に関連づけられた社会保障を前提にしなければ生活が成り立たない(雇用の外で生きることができない)人間が圧倒的多数を占めるに至ったこと。そして、その労働の雇用化が雇用の非正規化と同時進行したことにより、個人の自立を実現するはずの個人化プロセスが逆効果を露にしたこと。

 つまり雇用のもたらす環境と資源を土台とする社会的移動と社会的安定(社会保障)が裏返しのかたちで現象するので、個人の存在様態が深く変わってしまったこと。

 個人化された個人は、見通しのきかない不安定と身動きの取れない固着のなかに存在する。雇用を軸に構築された社会的安定の装置「社会的なもの」のなかで保護と自立の循環がうまく回らなくなったのだ。かつて雇用の外にあった不安定が雇用の内に転移したかのようだ。内部にいながらにして外部化されてしまう。しかし、外に出されるのではないがゆえに外部とつながることはない。

 閑散とした平日のショッピングセンター内の通路。クリーム色のフロアにカフェのテーブルと椅子が出されていて、年寄りがひとり紙コップでコーヒーを啜っている。都会の街頭における見知らぬ者たちの社交性のオープンネスとは似て非なる、内部でも外部でもない閉域。もちろんそれは見知った者たちの集う縁側とは似ても似つかない。

 この所在ない宙吊り状態が「郊外的なもの」と非正規雇用を同じ不安の色調に染めあげる。内部でも外部でもない空間とは、本来すみやかに通過すべきトランジットなのであって、定着して何事かを営む場所ではない。そのような場所に滞留することになった人間たちは、営むべき営みを欠いて剥き出しであり、剥き出しである分だけ個人であり続けるのが難しい。

 自立と孤立を取り違えてはならない。人間が個人という存在形式を維持してゆくためには、それなりの環境と資源を必要とする。非正規雇用のまわりに突出して現れる諸問題からは、「社会的なもの」の弱体化に発する自己統治の問題系が浮き上がってくる。都会も田舎も、ことの良し悪しは別にして、人に一定の見通しを与える参照枠である。人はあるときそれに従い、別のあるとき反発して生活を形成してゆく。

 これに対し、郊外的なものの人工的性格は、社会保障などに代表される“社会的なものの抽象性”に由来する(年金を資産と比較せよ)。郊外的なものの原器はショッピングセンターなのだとさえ言える。というか、社会的なものが郊外的生活の基盤をなすはずであったのだ。雇用化と社会的なものの整備(社会保障、公団住宅、公教育……)により、帰属集団と自己アイデンティティは取り換え可能な複数の可能世界として現れる。

 わたしたちはその世界間を移動してゆく。それが福祉国家なるものの散文的な夢であったはずだ。だが郊外化のプロセスは、その移動可能性の失効と同時並行的に進展したのだった。賃労働社会の動揺、社会的なものの退潮は、郊外的生活という夢を悪夢に変えてしまった。地方都市の2000年代とはそのようなものだったのではないか。

 安定を求めてそこに留まれば不安定がますます増大し、移動を求めるためにそこから動こうとしても踏み切り板が失われている。そうしたプレカリアートの悪循環にはまりこむ穴が、郊外化された社会空間にはいくつも穿たれている。穴に落ちる不安は全員を捕らえて放さない。しかしそれは、まったく個人的に引き受けられるしかない。

 連帯を促すはずの社会的なものはもはや桎梏であるように感じられるのかもしれない。自己を個人という形態のもとに組織してゆくことに不安を感じるわたしたちは、こうして隣人と共存することに際限なく苛立ちと恐怖を感じるようになるだろう。孤立のなかに安心を見出す倒錯。

 スーパーマーケットの午前2時。こんな時間に肉を買う必要があるのか? ラップされたプラスチックトレイに手をのばしながら、空疎な正論を内言する自分に失笑して店内を眺める。疲れた顔をしたスーツ姿の男性、財布を左手に握った上下スウェットの主婦らしき女性、若いカップル、大学生っぽい三人組……。レジにはパートの中年女性がふたり。生活と利便性の危うい関係が「普通」であり続けることの脆弱さを際立たせる。深夜のスーパーが地方都市の見る夢だとしたら……。

 個人化の錯誤と労働(自己実現)の幻想が、社会的なものの機能不全を解決するために(集団的秩序の回復)、社会的なものそのものを解体したいという、ネオコンサヴァティヴな衝迫を動機づける。

 だがそれは諸制度の解体という以上に複雑な事態を引き寄せるだろう。可能世界の無限増殖と個人化を支える資源の枯渇は、賃労働社会の周縁部をまず打撃した。だが正確にいえばその全域を脆く損なわれやすいガラス細工のようなものに変質させたのだ。破壊衝動の背後に自己破壊が待っていることを、自己防衛のためのマイノリティ排斥が自己破滅に帰結することを、予感しない者はいないだろう。

 わたしたちが暮らしているこの場所は、マジョリティであるがゆえに無徴であることの不安と身の置き場のなさがマイノリティの閉塞感と交差する、複合的な軋轢を人びとの経験に刻む場所なのである。

(註)賃労働社会については、拙稿「労働と個人主義」『VOL』第2号(2007)を参照されたい。ちなみにフランスでは70年代前半に同じ比率が80パーセントを超えてピークに達している。郊外問題や新しい貧困がその後に見出されたのは偶然ではないだろう。


うしろ・てるひと/1967年生まれ。福井県立大学准教授。社会学、社会思想史。共著に『変異するダーウィニズム』(京都大学学術出版会)、『No War!!』(河出書房新社)。

(PARC)

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